晩秋。 冷え切った朝の空気の中、チャイムの音が、静かな校舎に錚錚と響く。本来ならこれは始業の予鈴であり、朝の賑わいがあるはずの教室には耳鳴りがするほどの静寂が佇んでいる。 どこからか吹く風が、綺麗に染まった銀杏の葉を揺らし、微かな音を立てる。かつての学び舎としての賑わいは過去の残り香、人々の認識の柵から去り、ただそこに存在しているだけの、静かなる廃校。 特別教室棟4階。軽やかな足音を響かせ、階段を下りる一つの影。鼻歌とともに、革靴の底がリズムを刻む。 忘れ去られたはずの此処に、いつのころからか住み着き始めた、学びの記憶たち。もともと実体のない概念だったはずの彼らが、どうして人間の真似をし出したのか……その理由は察しようがない。 彼は、羽織ったスーツのジャケットをなびかせ、銀色のタイピンを朝陽に光らせながら、廊下を渡る。太い黒縁の奥の目は、楽しげに細められている。 がらりと音を立てて開かれたのは、第一理科講義室の戸。暖房であたためられた空気と、ふんわりと香るコーヒーの匂いが溢れる。 「おっはよー、せい兄」 「おはようぶつりん。朝ごはんできてるよ」 ご機嫌な彼……物理は、定位置ともいえる席につく。元は学生たちが勉学に励むための場所だが、今は彼らの生活の場へと造り替えられていた。といっても、机の位置を変え、ガス栓にコンロを繋いだ程度のものであるが。そしてここ、第一理科講義室は、彼ら科学兄弟の食卓になっていた。 長兄の化学は悠然とコーヒーを啜り、次兄の生物は笑顔で、料理の後片付けをしている。毎朝変わらない光景だが、 「あれ?ちが兄は?」 物理は三兄の地学がいないことに気づいた。 「ちがくんはねぇ……多分昨日遅くまで勉強してたから、お寝坊さんじゃないかな」 心配そうな口調で生物が言う。地学は兄弟いち真面目で努力家だ。すこし抜けているところがあるが、その熱意は他を圧倒する。昨日は鉱石のサンプルを取るために遠出していたはずだが、どうやらその後もまだ、自室である地学実験室に籠って何かしていたらしい。 ちょうどそのとき、どたどたと慌てた足音が聞こえた。ドアが勢いよく開けられる。 「…ッ、すまない、遅れた」 「わっ、びっくりした! ちが兄おはよー」 「おはよう物理、兄さん…」 地学はあせあせと席につく。いつもは涼しげな眼元には、色濃く疲れが出ていた。 「地学、夜更かしは程々にな」 「ごめん、かが兄さん……」 「もう、兄さんだってしょっちゅう夜更かしするでしょ。ちがくんばっかり責めないの」 化学はむう、と不満そうな声を漏らして黙った。見越して、生物はぱんと手を鳴らす。 「はい、おしまい! さ、目玉焼き冷めちゃうよ。いただきまーす」 三人もいただきます、と後に続いた。 生まれたての朝陽より鮮やかな、半熟に仕上げられた卵黄にフォークを突き立てると、薄い膜が破れ、濃厚な黄身が溢れだす。白身はぷるぷると柔らかく、バターの甘い香りが広がる。縁までカリッと焼きあげたベーコンと一緒に、粗挽きの岩塩と黒胡椒を振りかけ、薄口醤油を数滴垂らすのが、物理の好きな食べ方だった。 「そういえばさ、ちが兄、昨日どこいってたの?」 いつも何の刺激もない廃校にいては、退屈ささえも飽きるもので、今朝の話題は地学の外出についてのことで持ちきりだった。 「昨日は、少し遊びに行ったんだ」 「遊びに? えー、ずるーい」 「遊園地とか、そういうのじゃないぞ。柘榴石の採掘に行ったんだ」 「柘榴石ってガーネットっていうんだっけ。めずらしい宝石じゃないの?」 「ケイ酸塩鉱物だな。む、確か標本にあったような気がするが……」 「そう、あの標本はあまり綺麗じゃなかったから、もっときれいな形の結晶を探してこようと思って。さすがに海外まではいけないけど、日本でも結構とれるんだ」 地学は、うれしさを抑えきれないようで、少しそわそわとしながら続ける。 「柘榴石は、綺麗な結晶を作るんだ。たとえば水晶は六角柱の結晶を作るだろう? 同じように、柘榴石は菱形十二面体の結晶になるんだ。今まであったサンプルは、綺麗な赤色だったけど、欠けてたり割れてたりしてあまり綺麗な菱形の面がなかったから」 「それでそれで? 綺麗なの見つかった?」 「ああ、小さいけど、綺麗な形をしているのが出てきた。それで昨晩、ケースとか見やすい展示を作っていたら……」 地学は大きな欠伸をした。そして恥ずかしそうに顔を赤らめる。 「ちがくん、楽しいのはよくわかったけど、無理はしないでよね」 「すまない、せい兄さん。でも、見てほしいから、頑張った」 「それならじっくり解説付きで見せてもらわなきゃね!」 和やかな会話に、古ぼけた音のチャイムが割って入る。ここには、かつてのように時間を気にする者は、誰もいない。 のんびりと食事を終えた彼らは、それぞれのしたいことをするために解散する。ある者は研究に。あるものは読書に。そして物理は大きく伸びをし、ふわふわと浮かぶ矢印を引き連れて、再び、廊下を渡る。くるくると、その爪先で複雑なリズムを刻みながら。 高度を上げた太陽は、仄かな温かさを連れ、銀杏の色をより鮮やかに映していた。薄い雲が漂う空はどこまでも高く、落葉の乾いた香りが、冷たい風に乗って届く。風は強く、気温よりうんと寒く感じる寒さの中、それでもなお楽しそうに、物理は、黄色い絨緞の坂道を駆けおりる。勾配のきつい坂道は、かつては学生たちが揃って上ったもの。しかし現在はその賑わいもなく、彼らだけが使う、閑散とした坂道。誰も踏みしめていない鮮やかな黄色がどこまでも続いていく。 そんな夢とうつつの懸け橋で、物理は、ふと足を止めて振り返る。坂の上の校舎は、本来の目的を失ってもなお誇らしげにあった。物理は満足げにうなづくと、再び駆け出す。 どこへ行こうか。図書館に行って、読みたかった量子力学の本を借りて、商店街で新しい服なんかを見て周ろう。時間が余ったらゲーセンにも行こう。坂を下ればすぐに、人々が行き交う街がある。綺麗に舗装された道を、軽やかな足取りで歩き出した。 |