Last world

時間の破片、空間の断片。
繋がりはやがて環を描く。
これは環を繋げる留め金の物語。



 *



 中央通りから少し外れた径は、帰路につく人々の通りも少なく、夕凪の空の下でただ閑散と在った。
 ブロック塀が並ぶ住宅街。透かした蜂蜜色の陽を背にその影を長く伸ばして、両手に袋を下げて爪先に疲労を乗せた、スーツ姿の青年が歩く。オレンジに染まる背中の草臥れとは反対に、彼の歌う軽やかな鼻歌が、すっかり寒くなった空気に溶けていった。
 踵で複雑なリズムを刻み、一人アスファルトの上を往くご機嫌な彼、物理が目指す先は、彼の家ともいえる廃校であった。時間から取り残され空間のずれた其処は、実体の不安定さはあれど、彼らにとって大切な場所には変わりない。そこに存在していなくとも、ただ彼が其処に帰ろうという意思があるために、其処は存在し、また、彼を迎える仲間たちが存在している。
 今日の物理は、朝から長い散歩に出ていた。図書館で本を読み、気がつけば昼に。足をのばしてみた大通りは、年に一度のカーニバルで賑わっていた。そして通りの傍の小洒落た店で昼食。商店街で春物の服を新調して、いつものゲームセンターで財布の小銭がなくなるまでゲームに興じた。

 我ながらなんて贅沢な一日だったのだろう、と物理は思った。
 歩きながら、物理の意識は既に、廃校の仲間の許にあった。帰ったら話そうと思っていたことが数えきれないほどあったのだ。その一つ一つを思い返す。読んだ本の中身の、興味深い一節は、兄の化学に話してみよう、とか、カーニバルの賑やかな話も兄たちに教えよう、とか、ゲームのハイスコアを数学に自慢してやろう、とか。どんな反応が返ってくるか想像して、物理は一人こっそりと笑った。
 日はさらに傾き、気温もぐっと冷え込んできたようだ。さすがにジャケット一枚じゃ寒いな、と肩を竦ませながら、変わらない景色の中を物理は歩いている。すると、前方からなにやら楽しそうな少女の声が聞こえた。目をやると、中学校の制服を着た五人組が、仲良く手を繋いで歩いている。物理の存在に気付いたらしい一人が少し慌てた表情を見せたが、繋がれたその手はさらに固く握られ、その様子に物理の顔にも笑みが浮かぶ。
 ひとつも言葉を交わすことなくすれ違った一人と五人。だが、物理の頭の中には、仲間に報告したいことがひとつ増えた。
 笑みを浮かべて、物理は夕暮れの中を行く。


 * *

 大通りと径を繋ぐ、薄暗い路地裏。
 一人の大きな体躯の男が、難しい顔をして壁にもたれていた。手には、手書きと思われる綺麗な字が並んだメモが握られている。
「ここへ来るのも二度目、か」
 吐息と共に吐き出すようなその言葉に深い意味はないのかもしれないが、男は頬の傷を歪めて、紺碧の瞳に深い猜疑を宿らせる。
 事実、彼の理解が及ばない現象が彼の身の回りで起こっているのだ。
 彼は――彼らは、数多存在する「世界」を監視する者であった。世界同士を分断する「境界」、謂わば一つ上の次元から、この世界を見下ろしている。
 その彼が異変に気付いたのはほんの三か月前ほどのことだ。次元の壁である境界を越えて、世界同士が干渉し合っている。全く無関係であった小さな世界同士が繋がり、しかも調和を保っているというのだ。不可思議な現象に、彼は身をもって調査に乗り出した。
 しかし、これといった異常もなく、困り果てた彼は路地裏で一人頭を抱えていた。
「師匠」
 路地の反対側から少年が駆け寄る。男は顔を向けずに応答した。
 この少年もまた「世界」を旅する、境界の人間だ。彼は記者やスパイの経験を生かし、男の指示でこの世界の異変について探っていた。
「あ、メモ見てくれたんですね。それに書いた通り、何も異常は見つかりませんでした」
「そうか」
 男は深いため息を吐く。とその時、二人に緊張が走る。
 長い永い時間を生きてきた男には、それが何なのかあらかた予想がついた。世界同士の干渉が目の前で起きようとしているのだ。長い永い時間を生きてきた男でも、その目で見るのは初めてであった。
 目の前に広がる径。夕日に向かって歩く学生の集団と、夕日を背に歩く青年。交差した視線、干渉。彼らがすれ違う一瞬を、二人は確かに見届けた。
 何の変哲もない、日常の光景かもしれない。すれ違う世界は何も意味しないかもしれない。この「世界」の認識において至って当然のことである、その瞬間は、彼らに一つの答えをもたらした。
 再び深く息を吐いた男は壁の汚れが付いた背中を払い、少年の頭をぽんと撫でた。
「帰るぞ」
「いいんですか?」
 少年は問い返したが、少年にも男の心は解ったようである。
「ああ」
 そして二人は、時空の裂け目へと消えていった。


 * * *


 時刻は夜へと急ぎ、日の沈んだ空はまだ明るいものの、東には星が瞬いている。
 重そうな通学鞄を肩にかけ、ダッフルコートのポケットに手を突っ込んで、島崎彰洋はやや急ぎ足で歩いていた。
「少し温かくなってきたと思ったら、やっぱり冷え込むね」
 頭上から声が降る。彰洋の二メートルほど上空に浮いている少年、人見陽太は、真っ白なマフラーを口元まで引き上げながら言った。
「明日からさらに寒くなるらしいぜ」
「うわ、本当? 僕寒いの嫌だな」
「人見はほんと寒がりだよな」
「君が想像しているより上空はもっと寒いよ」
 陽太は空が飛べる少年であった。本人いわく、水に沈むように宙に浮くから「空中潜水」というのだそうだ。空が飛べるだけの、至って普通の少年なのだが、その視点は他人とは少し違うのである。
「ねえ、島崎君さ」
「うん?」
 彰洋は少し身構えた。彼が自分から話を振ってくるときは、長話になることが多いからだ。しかもそれは彰洋には少し理解しづらいものであるため、彼はいつも集中して聞かなければならない。
「この世界のこと、好き?」
「は、」
 その真意がつかめず、彰洋は陽太を見上げる。暗闇に覆われつつある空に浮かぶ陽太の顔は、彰洋にはよく見えなかった。
「この世界……なんて表現したらいいんだろう。僕らが認識しているすべて。そう、それを世界という単位で表現したとき、僕らは世界の中央にいる。君が見ているその世界は、どんな景色なんだろう、って思って」
 反応のない彰洋を察してか、陽太は続ける。
「たとえばこれが、誰かに作られた世界で、確率さえなくなった必然の世界で、僕がここにいることだって仕組まれた世界で……それでも僕は、幸せって言えるのかな。反対に、これが僕自身が作り出した世界で、見えない確率にもがき苦しんで、それでも僕は幸せなのかな」
「相変わらずわけわかんねえな」
「うん、そういうと思った」
 陽太の嬉しそうな笑い声が降りてくる。不服そうな彰洋は負けじと言う。
「でもさ、そんなの、自覚のしようがないじゃん」
「まあ、そうだね。たとえばの話さ」
「自覚したところでもどうしようもない話だしさ。……でも」
 彰洋は緊張を逃がすように息を吐いた。白く煙った水蒸気は橙から紫へ移ろいゆく空へ消えた。
「俺に見えている世界は俺だけのものだし、これが俺の世界なら好きになるしかないかなーって思うよ」
「君だけの世界かぁ。うん、たしかに今見えているこれは僕だけの世界だね。……じゃあさ」
 何かを思いついたらしい陽太は、彰洋のとなりに降り立つ。そしてぐっと肩を寄せた。
「わっ」
「これでさ、僕らは見えている世界を共有していることにならないかな」
「共有?」
「僕らはこれで同じ世界を見ている。それがほんの片隅だったとしてもね」
 むしろ共有しすぎるとよくないんだけどさ、と、付け加えるように言い、そして次は彰洋の顔を、眼を見て言った。
「ねえ、君はこの世界、好き?」
 世界。彰洋は、少し背の低い陽太の眼を見下ろし、その眼鏡のレンズに、光彩に、瞳に映る、無限の幻想を見た、気がした。まるで銀河が渦巻くような、そんな光を感じた。
「この世界、か。お前はきっと、いくつもの世界を見ているんだろうな。俺にはこの世界しかないけど、お前と共有できるし、お前の世界も見られるから、まあ、多分、好きなんだと思う」
「あはは、そっか。なんだか嬉しいな」
 陽太は上機嫌そうだった。
「お前はどうなんだよ」
「え、僕? 僕はね……」
 ふと陽太は口を止める。二人で共有している世界に、五人の学生が仲良く手を繋いで歩く影が見えた。
「ねえ、今さ、僕はあの人たち見てさ、羨ましいって思ったんだけど」
「急になんだよ」
「僕たちも手繋ごうよ」
「えっ、恥ずかしいだろ」
「いいじゃん」 ポケットに入れたままの彰洋の手を、陽太の手が包む。
「うわ、君手温かいね」
「お前は冷たい。ちゃんと血通ってるか?」
「冷え性なんだよ」
 手を触れ合わせると、言いようのない恥ずかしさが二人を包む。振り払うように彰洋は前を向き、声を上げた。
「なあ、結局お前はさ、この世界……とか、どう思ってるんだよ」
 彰洋の手に、柔らかい圧がかかる。
「そうだね。僕はこの世界、本当は嫌いだった。でも前の話だよ。Redefinition。再定義してさ、自分が、世界を受け入れたら、好きになったかな」
「便利だな再定義」
「便利ってわけじゃないけど、見方を変える手段としてはおすすめ」
「ふーん」
「全ての世界に始まりがあって、終わりがある。その中心にいる僕らは、与えられているのか……創り出しているのか。わからないけど、そうだね。共有している人がいる。そしてさ、僕はまだ定義できていないからはっきりとは言えないし、その事象がどういうものなのかもわからずに言うけど、きっと愛してくれる人がいる。たった一人でも、この世界に居なくても、次元が違っても。だからさ、好きになりたい。僕はそう思ってる」
「珍しいな、お前が愛とか言うなんて」
「だからわからないって言ったじゃん。本気にしないで」
 少し拗ねたような口調で言う陽太に、彰洋はくすりと笑った。
「わかったわかった。んでさ、その愛してくれる人って誰よ」
「どう解釈してもらってもいいよ。君が僕を愛してくれてるならそれでもいいし」
 陽太のその言葉に、ただ彰洋の認識を確認する以外の意味はなかった。陽太は認識の有無にしかこだわらない、そんな少年であった。
「お……いや、なんだよ急に恥ずかしいこと言うなよ」
 急に顔を赤くした彰洋は、慌てて手を離した。陽太の手がそれを追う。
「何勘違いしてるの。もう、手離さないでよ」
「お前が変なこと言うから」
「えっ僕のせい?」
 手を繋ぎ、二人の会話に昇った白い息は、星の光る夜空に立ち昇る。わざと狭めた歩幅のせいで、二人の時間はまだ続くのであった。


 * * * *


 星は、環を描いて天球の上を滑る。
 まっすぐに伸ばした指で環の中央、北極星を射抜き、幻想に生きる少年、人見陽太は言う。
「ねえ、この世界が、……今まで続いてきた、この世界が、今、環になろうとしているよ。君には、どんな世界が見えた?」



2014 2/4 夕陽真黒
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